教祖殿前の梅の木はどこからきたのか?

 7月の週末。妻がわが家の縁側で梅を干し始めた。日差しを受ける梅干しを見て、10年以上前、『陽気』創刊60年を吉祥に読者サービスに作った「陽気だより」(A4裏表)の記事を思い出した。教祖殿前の梅の木にまつわる話である。(陽気だより№23:2009.2.15)

 内容を要約、再録したい。

 2月3日の節分の日に、昼休みに本部へ足を運んだ時、教祖殿前の梅の木を、臨月かと思われる修養科生が携帯電話で写真を撮っていた。「梅に鶯」――「春告げ鳥」が鳴き始めるころである。

 この梅の木は、いったいどこから来たのか? 『おやさと・いまむかし』(平木一雄著)に、その来歴を見つけた。『道のまないた』(郡山天竜社編)にその由来が書いてあるという。

 明治24(1891)年、(当時の)敷島大教会(現桜井市外山(とび))から初瀬(はせ)へ行く道で、上村吉三郎(敷島の初代会長)が一本の立派な梅の木を見つけて平野楢蔵(郡山の初代会長)に相談した。以前、この木は住友か鴻池(こうのいけ)かの財閥が買い取る約束をしたが、場所が出しにくい所であったので、そのまま放置されていたものということだった。

 平野楢蔵はこれを本部へ献上したいと思い、その家の主(あるじ)に交渉して買い取ることにした。植木屋棟梁の植豊は「あの木はとても出せない」と匙(さじ)を投げたが、楢蔵は「あの株を二つに切り割って出せ、あとは(二つをくっつけて)元に戻して植えよ」と言い、棟梁はその通りにして出し終え、当時の教祖殿(御休息所)前に移された、ということ。教祖5年祭が営まれたころである。

 その後、大正3(1914)年に教祖殿(現在の祖霊殿)ができた。宇野たきゑ(越乃国大教会5代会長夫人)によると、「私の子供の頃は、旧教祖殿(今の祖霊殿)の東側のお庭にあって、芝生には青銅の鶴が二羽遊んでいた。紅梅の位置は昔のままで、教祖殿の新築の時も老樹ゆえに枯れるのをおそれて植え替えず大切に囲われてあった」とある。(『おぢば春秋』昭和30年刊・越乃国大教会発行)

 今の教祖殿が新築になったのは昭和8(1933)年で、しばらくして右にこの梅が移され、左側には常緑の松が配置された。しかし3年を過ぎるうちに花が少なくなった。一時は別種の梅に取り替えられたが、庭師の努力によって昔の面影を取り戻し、今のところへ返り咲いた、と記されている。

「二つに切り割って出せ」の平野楢蔵の一言、その後梅を丹精し、生き返らせてきた庭師の誠、梅の生命力……。

 教祖殿前の梅の木が、数奇な運命で今の場所に立ち続ける。
 老樹が見てきた風景を想像すると、何かしら熱いものを感じずにはいられない。    (山岡)                                             

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この記事を書いた人

図書出版養徳社 編集課長
養徳社に勤めて30年。
2020年から養徳社が激変‼️YouTubeチャンネルが始まり右往左往。
Web magazineも始まり四苦八苦。読者の方が読んでよかった、と思っていただける記事を目指します。
趣味は自家製燻製づくりの55歳です。

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