現在天理高校の北側道一本隔てたところに、左右二本立つ石柱が、何のために立てられたか、ご存じだろうか。
この柱、今具体的に何の役にたってるかはわからないし、あえて、今この場所に立つ特別な訳があるわけでもないだろうと思うのだが、いやいや、この石柱の建立の意味を知ると、なかなか恐れ多いこと。
そもそも、この石柱の建てられた場所は、現在地よりずっと南、天理高校から天理図書館への通り道に立てられていた。
建てられたのは、昭和7年、6月から10月のこと。
この秋、奈良大和一帯では、陸軍大演習が開かれ、大元帥であった当時の天皇陛下が行幸されることとなった。陛下は、天理駅(そのころは丹波市駅)から天理の南にある演習場であった乗鞍山に向かわれたため、歓迎の意味をこめて、その通り道に立てられた石柱である。
高さ7.2メートル、直径1,8メートルの、堂々たる石柱である。戦後の昭和26年には、昭和天皇は天理図書館にもお越しになっているので、この石柱は、二度の「お通り」の栄に浴していることになる。

筆者は、建立の由来を知るまで、なぜ特に立つ意味をなさない石柱が壊されもせずに残っているのか判然としなかったが、理由を知って、畏れ多いことと納得したのである。
ちなみに、当時とて、これだけの石柱の石材の調達は苦心されたようで、記録によれば、結局は、瀬戸内海にある本島大教会からの「青木石の献納」という記録が残っている。

今回掲載の2枚の写真は、『陽気』平成21年1月号の「天理今昔物語1」(近江昌司筆)に掲載のものを使用。
「天理今昔物語1」には、門柱についての詳細の検証がされている。