京都と伊勢崎を結ぶ不思議な縁 名代「おめん」

目次

身体によい食をもとめて 「おめん」

銀閣寺から「吉田山荘」のある吉田山を望む


名代「おめん」銀閣寺本店

 7月24日 銀閣寺を目指して京都に向かった。
 銀閣寺の傍に目指すお店はあるという。

 店名を聞いても、何のお店なのかを探り当てることは、私にはできなかった。
「おめん」とはなにか?

 取材の動機は、『陽気』(2020年7月号~2021年7月号)にかけて連載された「『吉田山荘』女将への道―母に捧ぐ回想録」(中村京古著)だった。「おめん」は、中村さんのお母様、品川登美さんが創業したお店だ。

 連載は全て読み終えていた。それにもかかわらず、「おめん」がいかなるものであるのか、イメージはつかめないままだった。が、あえてネットでは調べずにいた。

 百聞は一見に如かず。

「哲学の道」にある弥勒院

 気が逸っていたのか、道路が順調だったのか、約束の時間より随分と早く現場についた。
 散策してみよう。

 店から山手に50メートルも歩くと、そこは「哲学の道」。幸せ地蔵尊の赤い旗が目に入った。「弥勒院」だ。そこを左に折れて銀閣寺をめざす。朝とはいえ夏の陽射しは厳しいが、琵琶湖疎水からの小川にそって続く桜並木の小径は、適度に暑さを和らげてくれる。200メートルもいくと銀閣寺橋。右に折れれば銀閣寺。

 正式名称東山慈照寺、「わびさび」の集大成と称される銀閣寺は世界遺産でもある。15世紀の創建当初は文化人のサロンとして賑わった、と説明文に書いてあるのが目に留まった。

 山門を出て、すぐ左に折れて哲学の道よりももう一つ山際の道を歩いてみた。少し歩いて、坂道を下りると、再び哲学の道に出る。それほど歩いたとは思わなかったが、既に「おめん」から上った道からは数百メートル過ぎた処に出たようだ。何軒かのお洒落な甘味処などを過ぎて「おめん」に戻った。改めて見てみると、本当に銀閣寺に近いところにあるのを実感した。

 
 三階建、落ち着いた佇まい。大きな格子窓、これが京都かぁ。私の地元埼玉なら、食べ物屋さんは大概、店内の様子を見せている。

 涼しげな麻の暖簾をくぐると、素敵なお嬢さんが迎えてくださった。案内されるままに二階の個室で、創業者の長男品川浩志さんと長女中村京古さんのお話を伺った。

左から次男・正毅さんの娘さん 浩志さん 中村京古さん 現社長夫人

「取材の話を頂いてから家族で話したら、面白くてね。昔はいろいろあったな」
 そう話し始めた浩志さん。
「いろいろあった」その内容は、恐らく「おめん」開業に至るまでの歩みも含まれているのだろう。

 波瀾万丈という言葉があるが、創業者品川登美さんの人生こそ、当て嵌まるのではないかと思う。その大半を共に歩んできた浩志さんの視線には、穏やかながらも、両親を助けて兄弟を支え続けた自負のようなものを宿している、と、私は感じた。

おめんのルーツ―品川家の食卓

 創業者の品川登美さんは、大正12(1923)年、京都で生まれた。昭和15(1940)年、商社勤めの要治さんと結婚。要治さんの実家・品川家は、群馬県伊勢崎の伊勢崎銘仙の機屋で、商社の専属工場だった。要治さんは7人兄弟の末っ子である。

品川家は、代々ご皇室の織物を献上していた 前列は、要治の父(実治)と祖母(ひさ)
前列左から6人目(赤ちゃんの右)・登美 その右(ひざかけをした女性)がたい


 結婚後、夫婦は中国で暮らしていたが、戦況激化を受けて昭和18年、登美さんは子供を連れて夫の実家に疎開した。

 品川家は、舅・実治亡き後、姑のたいさんが、大家族と多数の従業員の中心となり、切り盛りしていた。そのたいさんに、20歳の登美は殊の外可愛がられた。

おめんやでぇ~」明るく響き渡るたいさんの威勢の良さは、上州名物と言われる“かかあ天下とからっ風”そのもので、亡き夫の分まで所帯を切り盛りする器の大きい人だったようだ。
 品川家の食卓は、家族・住み込み人の従業員など、80数名の大所帯である。朝から「うどん」を仕込むのが嫁たちの日課であった。

 上州は日本で最も上質な小麦の産地。そこで作り上げられたうどんを、地の野菜やすり胡麻と一緒に頂くうどん料理が、「おめん」の原点、原風景である。「麺」に丁寧語の「お」をつけて「お麺」なのだろうか。たいさんは、ことあるごとに、「おめん」の作り方を登美さんに伝授した。
 たいさんは、熱心な信仰者であった。特に天理教の教えに基づいたその生き方は、後の登美さんの人生に大きく影響を与え、どのような苦労の中も乗り越えられる心の力を養うものだったという。

品川要治・登美夫妻

  
 昭和22(1947)年、品川要治さんが帰還するも、戦中の軍関連の商社員活動が戦争責任に触れると考えた会社の都合で、隠遁生活を強いられた。その中で登美さんは、職を変えること45回、転居22回という経験を経て、
「今までいろいろ苦労してきて、それを生かさないなんて、もったいない。その苦労で得たものを土台に、食べ物に関わる商売をしよう」
 と決心する。


おめん開店

 登美さんは、戦後の苦境の中、においがけられて京都で入信。事あるごとに相談をかけていた教会へ足を運んだ。
 創業の計画を聞いた会長は、
「あんたは、なかなか才覚がある。勇気もある。信念もある。努力もする。しかし、足りないものがある。それは、感謝だよ…食べ物の商売は、人の体力を守る商売だから、この感謝ということを忘れてはいけない。感謝を忘れなければ、商売繁盛間違いなし、人さまに喜んで頂けるように努力しなさい」

 登美さんは当時、食べ物商売を知るために勤めていた「吉田山荘」から、料理や献立などを学んだ。後に、長女京古さんが女将となる料理旅館である。

 昭和42年8月10日。京都・銀閣寺前に念願の「おめん」を開業する。

創業当時の「おめん」

 うどん料理の「おめん」以外に、何か一杯飲めるものを出そうと考えていたところ、吉田山荘の料理長がメニュー作りに力を貸してくれた。創業には、当時建設会社に勤めていた浩志さんと、水商売を始めるためにレストランや喫茶店で研鑽を積んでいた次男・正毅さんが、それぞれの分野で力となった。
 そればかりでなく、二人の知人、友人たちが力を貸してくれた。その中には、陶芸家や漆器作家といった文化人もいて、そのことが「おめん」を形作る上で、欠かせないスパイスになっているように思う。


「おめん」を頂く

 群馬の伊勢崎をルーツとする「おめん」。埼玉県人の私は、群馬、埼玉に「うどん文化」があることは知っている。根っからの地元の家では、集まりがあると、〆には手打ちうどんを振舞ってくれたものだ。
 でも、それだけに関東の醤油ベースのうどん。関西人には黒いと感じる出汁と関西のうどんのギャップが気になって、「おめん」とはいかなる食べ物なのか想像できないでいた。
 私が関西で初めてうどんを食べた時は、「お湯」に麺が浮いているんじゃないか?くらいの衝撃を受けた。
 京都の人が関東の麺をどう受け入れたのか?

 出て来た「おめん」を食して、謎は氷塊した。

 細身の麺は、釜揚げ風に仕立てられている。隣に大ぶりの器に汁がある。その上に、キンピラごぼう、隣に色とりどりに盛り付けられた季節の野菜(季節によって変わるらしい)が添えられ、白ごまの器がある。

 美しい。

 汁の器に、それらの野菜を入れて、白ごまをたっぷりかけると、つけ汁が完成する。
 麺を入れて、野菜と共に口に運んだ。
 優しい醤油ベースの汁には深みもある。ほどよくゆでられた野菜の歯ごたえがアクセントになって食感も楽しめる。

 これが「おめん」なのか

 うどんは日常食だ。だから、うどんの上に何をのせるかのトッピングの違いくらいで、飾ることもない。野菜の多く入った煮込み麺なら「ほうとう」が有名だ(これも美味しいし、好きなのだ)が、それとも違って目で楽しめる。たしかにこれは、「うどん」と表現してはいけない。「おめん」なのだと思う。

 群馬伊勢崎の郷土料理の一筋の細い糸が、京都発信の食べ物として全国区になっている感がある。


お品書き

「おめん」銀閣寺本店には、創業間もない頃からの登美さん手書きの「お品書き」が残されている。その後、2代目の浩志さんが楽しい絵を添えて、季節の移ろい、時には世相を反映したものが、長年の資料として残されている。今も添える絵の原画は、2代目が担当されているという。

 登美さんは、晩年、「昔、群馬で食べたおめんのほうが美味しい」と言うことがあった。「そんなはずはない」と思いつつ、浩志さんはもう一度原点に戻って、見つめ直そうと決心した。スタッフと共に群馬伊勢崎を訪ね歩いたが、「おめん」を知る人は殆どなく、今では途絶えてしまっている郷土料理であり、名前の由来もわからないままだったという。

 出汁はどうであったのか?麺はどうなのか?
 上州路には、思いの外多くの粉や麺があり、それらを行く先々で自慢げに話す店主と出会ったことから、これまで外注していた製麺を自社で行うようにして現在に至っているという。

縁の糸が織りなす不思議

 創業者の品川登美さんの父親は、紋上絵師(着物に家紋を書く仕事)を家業としていた。そして実家が伊勢崎銘仙の品川要治さんと結婚した。
 繊維が取り持つ縁の糸が、伊勢崎と京都を結び、「おめん」誕生へとつながった。天理教という信仰の糸でも、つながっていたのだから、不思議と言えば不思議だ。

 そして、「おめん」誕生の裏地には、長男の浩志さんと次男の正毅さん、二人の糸が織り込まれている。
 2代目社長が、浩志さんと正毅さんのお二人だと伺って、どちらが欠けても成り立たないほどの貢献であったことがわかった。

 品川家の話を伺っていて、私が深く感じ入ったことがある。
 登美さんのお子さん5人は、誰一人欠けることなく、母親を助けたいと思い、それぞれの能力を発揮していることだ。
 これはすごいことだと思う。
 そして現在、本店とアメリカ・ニューヨーク店、京都四条店の3店舗がある。

 「おめん銀閣寺本店」の最上階には、神様の間がある。
 取材からの帰り際、上の方から拍子木の音が響いていた。

“声かかる 贔屓を待つや 質吟味”

 おめん創業時、登美さんを裏で支えた要治さんが、詠み上げた心の句である。

(次女・満理子さんと三男・幹雄さんのことは、次回にしたい)

前列中央右・長男浩志 左が次男正毅 右から2番目が3代社長・耕大

【おめんのお店情報】
京都府京都市左京区 銀閣寺バスプール南隣(銀閣寺近く)
営業時間は、11時~(営業日・終了時間など、詳しいことはホームページにのっています)
電話=075-771-8994
「おめん」のホームページ=https://www.omen.co.jp/
「おめん」の通信販売もあります=https://shop.omen.co.jp/

品川登美さんの人生・おめんの歩みは
『人生に無駄なしー苦労も楽も受け方しだい―』(品川登美著 ぱるす出版)
『陽気』令和2年7月号~令和3年7月号まで連載(「吉田山荘」女将への道―母に捧ぐ回想録―〔中村京古著〕)
にも、くわしく出てきます。
『陽気』バックナンバーのお問い合わせは
 養徳社の新ホームページ=https://youtokusha.jp/
 養徳社電話=0743-62-4503 へ、お願いします。

よかったらシェアしてね!

この記事を書いた人

目次
閉じる