親里のイチョウ並木

 天理で、学生時代をすごし離れた人には、天理といえば、親里大路のイチョウ並木を思い出す人が多い、と聞く。(そもそも、親里大路は、昭和9年に、「東西幹線」として都市計画として立案され、もう一本は、戦後の29年に、「北大路線」として完成)。

 確かに、晩秋の夕暮れに黄金色の葉が落ちるさまは、一幅の絵をみるように美しく、忘れがたい風景である。
イチョウは、昭和49年には、「天理市の木」に選定されているが、平成6年には、読売新聞社企画の「新日本街路樹百景」のひとつにも選ばれている。

 養徳社で、昭和20年に発刊され、名著とされる『大和古寺風物誌』の著者、文芸評論家であった亀井勝一郎氏は、中山正善二代真柱様と懇意であったことから、親里にも幾度か訪れているが、天理関係者には、よく「もう、あのイチョウは散り始めましたか」と訊かれていたという。

 ところで、故平木一雄氏(本部准員)が、こんな逸話を書き残している。昭和8年の秋、数人が二代真柱様を囲んで街路樹は何がいいか、と論じあっていたという。
 柳は、色っぽい。ポプラは、ポピユラーに過ぎる。プラタナスは西洋風、アカシアは棘がある、松は五十三次、杉は日光街道…皆が勝手にがやがや言っていたところ、二代真柱様が、「イチョウにせよ」と。
 鶴の一声ではあるが、平木氏は、真柱様の胸中には、在学していた東京大学構内の浜尾並木のイチョウ並木があったのではないか、と憶測している。

 一方、そんな俗物的なことでなく、天理図書館前に顕彰碑が建つ石上宅嗣(いそのかみのやかつぐ)が、日ごろから「和漢書の古書から紙魚(しみ=和書の害虫)を駆除するためにイチョウの落葉を挟んだという」故事にちなんだという。それが、もっともらしい話である。

 由来はともかくも、何かイチョウの実を集めて作る「イチョウご飯」というのがあるらしく、以前には、それを出す詰所もあったとのこと。
 ぜひ一度は食べたいもの、と食いしん坊の私は思うのですが…。

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