おやさまについてのお話のなかに、しばしば「丹波市」という名前が出てくる。例えば、「甘酒屋が、昼寝起き時分に丹波市からやって来る」とか、先人のご婦人が「丹波市の町中をておどりしながら帰った」とかいう逸話の中に出て来る。
ここでいう「丹波市」というのは、現在の「天理市丹波市町」である。どこのあたりかというと、天理本通りのずっと南方面、という言い方しかできないが、丹波市街道といって、かつては市内を南北に走る「丹波市街道」、古代では「上街道」と呼ばれ、近世では「伊勢街道」の宿場町でもあった。
丹波市町は、中心街であった。昭和40年に、当時の国鉄と近鉄駅がひとつになって現在の「天理総合駅」になった。国鉄(JR)駅は、現在の天理市民会館のあたりで、「国鉄丹波市駅」と呼ばれていた。
記録によれば、明治初年までは、奈良、大和郡山と並ぶ花街として寄席や市場もあって、大いに栄えたところであったそうな。
少し前までは、天理市を丹波市と呼ぶ人もいたのである。
実は、筆者はこの丹波市町生まれである。
私の詰所が昭和54年に現在地に替わるまで、この丹波市町にあった。
この丹波市町の「名物」は、中心部のぐっと道幅の広くなったところにある「陽屋根(ひやね)」と呼ばれる建造物である。私が子供のころは、ふた棟あったが、今はひと棟しかない。道の中央には細い川が流れていて、ここで遊んで、よく川にはまり水浸しになり、祖母に怒られたのも良き思い出である。
今では、この川は暗渠になっているが、いわば水路の役割をはたしていたらしく、江戸時代には、旅人が乗って来た馬に水を飲ませたり、旅人自身も休憩を取った所らしい。
また、ここには、お筆先を書くための紙やお御供として使われたという「金平糖」も売られていたとも伝えられている。
しかし、「丹波市」といえば、お道の信仰者にとっては、おやさまがたびたび「取り調べ」を受けられた「丹波市分署」が思いうかぶはずである。
この分署が、実際にどこにあったのか、筆者は以前に調べたことがある。それについては、次回の編集日記で書くことにしよう。