先ず、残念なご報告から。
前回のこの編集日記で書きました「丹波市町の陽屋根」が、さる1月末に、取り壊されてしまいました。日記で書いたことが「歴史上最後の記録」だったことになります。残念なことですが、あくまであれは個人の所有物で、理由も老朽化のため危険である、となれば、致し方ないことです。せめて記録に残して置いたことで良し、としておきましょう。
さて、天理大学名誉教授であり天理教史研究家であった高野友治氏が代表作「御存命の教祖」の中で、「丹波市警察」について、次のように書いている。
「丹波市の市場の所を北に進んで突き当たった所にあった。くの字に曲がった道路の上にあって、表は坤(ひつじさる・南西)横は巽(たつみ・東南)の方角を向いていたから『角屋すみや』と呼ばれた。間口が四間余、奥行きが五、六間、真ん中に裏に抜けられる土間の通路があって、その両側に部屋が二つずつあった。入り口の右側が拷問所で丸太格子がはまっていた。その裏が拘留所で教祖はここに拘留された」
私が知る限り、丹波市警察あるいは丹波市分署について書かれている唯一の記述である。残念ながら、丹波市分署の写真は、見たことがない。恐らく、撮っていないのだろうし、その必要もなかったのだろうと思う。だいたい、あった場所も時期もわからない。警察に記録は残されているかもしれないが、そこまでは、調べられない。
明治初年に、県には「大屯所」というのが設けられた。いわば、今でいう奈良県警である。その下に、天理周辺に4カ所の「小屯所」が設けられた、すなわち今市、櫟本、針ケ別所、そして丹波市である。場所は、高野氏の記述通り、丹波市の北を曲がった所、「久保院」というお寺に置いた、と記録されている。が、そのあと転々とし、実際教祖が拘引された丹波市分署はどこであったかは、ご苦労くださった期間が確定できないこともあって、私の調べた範囲ではわからなかった。
ところで、この久保院の前には、「万年楼」という料亭があった。今はまだ、そこでドンチャン騒ぎした思い出のある人もいるのではないだろうか。実際、私は二度ほど連れて行ってもらった記憶がある。確か、昭和50年から55年、5年ほどの間のことである。
なかなかりっぱな料亭で、かなり歴史もあったのではないだろうか。
私は、ここでの宴会の記憶の方が丹波市分署跡を追うより、よほど楽しく懐かしく興味がある。
いまは、廃業になり土地も売られ、地主さんは奈良のほうに行かれたと聞いたことがある。今では分譲後に数件家屋が建って、面影はない。よほど、寂しいことである。