養徳社では、毎朝朝礼時に「おふでさき」を拝読する。輪番で、その日の担当者が音読後、全員が声をそろえて読むのである。赤い表紙の変体仮名のものを読むので、読めない文字の読み方の確認を、わたしは、おふでさきの「日英対訳版・ローマ字付」ですることがある。
そこで気づいた(今さら? と思われる読者の方も多々おられることと思うが)、漢字で書けば「誰」という言葉が、おふでさきには「たれ」と書いてあるし、「日英対訳版・ローマ字付」の「ローマ字」表記には、「tare」とある。
昔、作家の司馬遼太郎は、「だれ」とは書かず、「たれ」と書いた、と何かの読み物で目にしたことがあったことを思い出した。わたしが所有する司馬の著書を読み返すと、確かに「たれ」であった。
「たれ」のことを、インターネットで調べると、
――「だれ」と変化したのは、近世後期からの現象と思われる。現代では、「だれ」が一般的であるが、主に文語脈の中では、「たれ」ともいう。――
とある。近世とは、日本史では主に江戸時代をさすようなので、教祖が「おふでさき」を記されたころには、一般的な表記は「だれ」に変わっていたのかもしれないよな……。
などど考えていると、テレビの時代劇で、お殿様が「たれかある!」と大声で人を呼ぶシーンを見た小さき日の記憶なども飛び出してくる(笑)。
朝礼時、わたしの番になり、
「高山に火と水とがみへてある たれがめへにもこれがみへんか」(2―40)
などと、「たれ」が出てくる「おふでさき」では、ついつい「たれ」を読む瞬間力んでしまう。「だれ」ではなく「たれ」ではないか、という気分がそうさせるのである。
けれども、社員のみんなは、「だれ」と読む。まあ、「たれ」にも「たれ」のことは話してないからしょうがない。「どっちでもええやん」と言われるでしょうから(笑)。