サーキュラーエコノミー?
こちらの背筋が伸びる。わたしには何人か、そんな人がいる。
現在、110名以上の船士(ふなし)をたばねる、「保津川下り」の保津川遊船企業組合の代表理事・豊田知八(とよたともや)さん(56歳)もその一人である。
京都市の西隣、亀岡市にある「保津川下り」は、慶長11年(1606)に、京都の豪商・角倉了以(すみのくらりょうい)によって水路が開かれ、丹波の木材などを京の都へ運ぶ荷舟業開業から416年がたつ。明治28年(1895)ごろから観光業としての「亀岡から嵐山」まで約16キロの舟下りが始まった。年間30万人が訪れる観光地である。


久々にコロナによる行動制限のないゴールデンウイークをさけ、雨の予報の合間をぬって訪ねたのは5月10日9時。天理からカメラマンのY氏と高速を走り1時間半。丸3年ぶりにお会いした同い年の彼は、相変わらず空手で鍛えたがっちりとした体格に、エネルギッシュな眼光で話し始めた。

「このHOZUBAG (ほづバッグ)は、サーキュラーエコノミーの一環の取り組みなんです」
「サーキュラーエコノミー?」 初めて聞く言葉に戸惑っていると、説明しながら、スマホで検索した画面を見せてくれた。要約すると、
――循環経済。製品・素材・資源の価値を可能な限り守り、廃棄物を最小限化する経済システム――ということになる。
3R(リデュース<レジ袋を断る・マイバッグ持参など>・リユース<使わない物を他の人に譲るなど>・リサイクル<再生利用・牛乳パックやペットボトルなど>)に加えて、同じものを共有して使うシェアリングやリースなどで付加価値を生み出していくことで生産が減り、ひいては資源利用量や廃棄物が減る。炭素排出など、環境への影響を最小限にする取り組み、ということになるかと思う。
「HOZUBAGは、環境先進都市を目指す亀岡市がパラグライダーのテント生地から生み出したものなんです」
強くて軽くて防水性も高く、カラフルなデザインのパラグライダーのテント生地だが、安全性を考慮して数年ごとの交換が義務付けられ、これまで廃棄するしかなかった。そこで生まれたのが、「パラグライダー生地で作ったマイバッグ」。企画からデザイン・生産・販売までを著名なファッションレーベル(ブランド)がしている、という。
「環境」をキーワードにさまざまな取り組みをしてきた彼の活動から、また新たな道が開けたのだと思った。
波の光と風を感じて
「こちらに集合してくださ~い。トイレは今のうちにすましておいてください」
女性添乗員の声が響く。出船前の待機フロア入口で、豊田さんの弟・覚司(さとし)さん(保津川遊船企業組合営業統括)が、関東の中学校からの修学旅行生100名ほどを笑顔で迎え入れている。
日々の船の運航管理や、団体営業、パンフレット作りやメディア広報を担当している、という。コロナの影響で激減していた時期も、あの手この手で営業努力をつづけてこられた。およそ2年ぶりに訪れた、嬉しい忙しさにちがいない。
「おかげさまで、旅番組やバラエティ番組でもよく取り上げていただき、著名人も訪れてくれる。ありがたいですね」
フロアの壁には、「美空ひばり」「郷ひろみ」から、今人気のお笑い芸人や俳優、歌手など著名人の色紙がびっしりと貼られている。


「それでは、船に乗ってもらいます」
豊田さんに導かれて階段を降りていくと、保津川をまたぐ橋の下に、3艘の船(20数名乗り)がつながれていた。右手の船から順次、出船する。1時間半の船旅の始まりだ。カメラマンのYさんと2人、最後尾の席についた。
赤色の救命胴着を腹に巻く。
運航中の安全確保のため、乗船中の注意事項を伝えるのは、船首で竿をもつ船士さん。その後ろで櫂(かい)を漕ぐ人、船尾の舵を操る人、3人1チームで運航している。
しばらく行くと、
「前に見えるのが沈下橋です。増水時には水面下になる橋です」
増水時に流木をせき止めたり、流木で橋が破壊されないよう欄干のない橋で、四国・高知の四万十川にもある、ということを、背後で舵をとるMさんが説明してくれた。40代後半、日焼けした顔に引き締まった身体をしている。

穏やかな波に、晴れ間の太陽の光が輝く。鮮やかな緑を左手に、心地よい風を頬に感じながら右に目をやると、カワウが大きな羽を広げて石の上で胸を張りポーズ(?)をとって動かない。水にぬれた羽を乾かすためなだそうだが、まるでモデル気取りに見えて、思わず笑ってしまった。甲羅干しをする亀の姿も見える。


舵取りの邪魔にならないよう気をつけながら、Mさんに声をかける。右前方でギ~ッ、ギ~ッと音を立てる「櫂」の素材を尋ねると、
「桜材です。櫂を船に固定する棕櫚(しゅろ)縄と相性がいいんです」
船士は、棕櫚の木の皮を剥いで縄に縫うと言う。

「ごみの撤去など、たいへんではないですか?」
「舟士や事務所員など、みんなで心がけてしています。市民の人や企業の協力もありますね。でも17年前、わたしが働き始めたころは、ごみが多かったですよ。それが今では、2~3年前から天然のアユが大阪湾から遡上するようになったんです」
Mさんの頬がほころぶ。17年前と言えば、豊田さんがたった一人から、保津川の環境保全に取り組み始めた時期と重なる。
初めて豊田さんに会った10年前、『陽気』に書いてもらった内容が浮かんできた。

与えられた人生転換の旬
バブル全盛期の昭和63年(1988)、大学を卒業した豊田知八さんは建設業界新聞の記者になる。政財界の大物と渡り合う先輩にあこがれ、空手で鍛えた身体と度胸を武器に、ペン一本に生きる腹だった。ところが入社5年、人脈も広がり、仕事にも油がのったころ、夜昼なしで睡眠もろくにとれない日々に思わぬ身上(病気)をいただいた。「喘息」だった。
休職半年、「喘息」は治まらない。復職を焦る彼に布教所長の祖父が、
「そろそろ行ったらどうや」
と言った。天理教教会本部で3カ月間教えを学び実践する「修養科」のことだ。若いころ、血を吐く身上をおさづけでご守護いただき、仕事のかたわら布教に打ち込んだ祖父の言葉が胸にしみこむ。父もおさづけを取り次ぎながら、
「自分で行くのとちがう、神さんが引き寄せてくれはる」
と静かに語った。
28歳で修養科に入った。
それまで、鵜の目鷹の目で腹をさぐりあう企業人や政治関係者を見て、「正直者は損をする」と思っていた彼は、年齢も肩書も関係なく真心通い合う修養科で人生観が180度変わった。ヤンキー風の若い男性が、クラスメイトのおじいさんの病気が治るよう、ご守護を願って真剣におつとめをする。損得などない。「祈り」の清々しさに心洗われ、ひのきしん(神様に守られ生かされている「かりもの」の身体に感謝して行う行動)と教祖(おやさま)の教えを学ぶ日々に心は躍動した。
喘息は1カ月目に薬で安定し、3カ月目には薬もいらなくなった。
修養科に続いて1カ月、本部の青年ひのきしん隊に参加後、教会長資格検定講習会を受講した。そこで妻になる女性と出会う。目の調子が悪いが治療法がないという彼女に、3日間と約束し、教祖殿御用場でおさづけを取り次いだ。
かつて、母は脳腫瘍で医者の手を離れた6歳の妹を抱いて修養科に入った。昏睡状態の娘を抱く母は教祖殿当番の先生に声をかけられ、御用場で三日三夜のおさづけをいただいた。3日目に妹は立ち上がり、その後1年の命をいただいたのだった。
3日間のおさづけで、彼女の眼の状態は安定して痛みもなくなった。
結婚へと話が進む中で、豊田さんは仕事を探した。父親の仕事の関係から、地元の保津川遊船の船頭を勧められ、結婚直前の平成7年(1995)から「保津川下り」で働き始めたのだった。(次号へつづく)
ようこそ保津川下りホームページへ(保津川遊船企業組合) (hozugawakudari.jp)
保津川遊船企業組合
621-0005 京都府亀岡市保津町下中島2
TEL 0771-22-5846
営業時間 9時から17時(電話 8時より)