二本の“糸”が交わった場所
話していると気持ちが明るくなってくる、そんなご夫婦だ。
それぞれに生い立ちを聞いているうちに、「結婚の経緯」へ話は進んだ。「最初に出会った場所は?」と尋ねると、「天橋立」という答えが返ってきた。
ご主人・織田理(おだ・おさむ)さん(清日分教会ようぼく・50歳・織田畳店4代目)が20歳。奥様の吉美(よしみ)さん(同ようぼく・49歳)は18歳だった。
大阪市にある清日分教会で、理さんは9人兄弟姉妹の次男に生まれた。天理教校附属高校学校(当時)を卒業後、大教会で青年としてつとめて2年目の夏だった。青年仲間数名と、毎年恒例のにおいがけ(布教)の「夏期伝道」に出て、天橋立近くでキャンプをしていた。
いっぽう吉美さんは、奈良県田原本町で、織田畳店の三人姉妹の末女に生まれた。高卒後に就職した大阪の会社を病気を機に退職、療養後、地元でアルバイトをしていた。親戚が天橋立で民宿をしているから、と同級生の友人に誘われ、数名で天橋立に来ていた。
「夜の食べ物・飲み物の買出しに土産物屋に来て、そこで、後輩の青年が(奥様のグループに)声をかけてね……」
理さんが照れくさそうに話す。同じ奈良から来たということで、その後も交流がつづいたという。
天橋立は、「古事記」のイザナギ・イザナミ二神の「くにつくり」の話に登場する場所。イザナギがイザナミのもとへ通うために天から架けた橋が倒れたのが天橋立という話もある。天と地を結ぶ場所といえるし、男女の縁を結ぶ場所ともいえる。
理さんは2年の大教会青年づとめを終えた後、天理の詰所で青年としてつとめていた。大阪に帰っても兄弟姉妹の多い小さな教会には寝るところもない。畳店を営む吉美さんの父親は当時50代、病気がちだった。姉二人は結婚して家を出ていた。両親は理さんが後継者になってくれたら、と考えたようだ。
二人の環境が結婚へと背中を押した。理さんは1年間の詰所勤務を終えて織田畳店へ弟子入り後、吉美さんと結婚した。理さんが22歳、吉美さんは21歳だった。
お客様の声から誕生した新事業
織田畳店の創業は明治33年(1900)、吉美さんの曾祖父が開業。祖父は後を継がず祖父の弟が2代目となり、祖父の弟に父が弟子入りして3代目となった。
3代目から理さんは、畳づくりのいろはを教わった。
現場で寸法を取り記帳する。丈(長さ)を拾い出し、畳床を成型する。畳表を切る。縁(へり)を縫い付けて貼る。畳表を磨いて仕上げる。各種の切る・縫うの機械操作や機械の刃物の研ぎ方、などなど。
畳床は、稲わらを縦横6層にならべ、40センチの厚みのものを5センチに圧縮するのだという。専門の畳床屋から畳床を仕入れて整形し、畳表を貼る。使用する国産の畳表は、熊本県の八代市で9割が製造されているということだ。
結婚後10年ぐらいは、安定して仕事があった。しかし、平成18年(2006)に4代目の理さんに代替わりをしたころから、大工さんからの注文量が減ってきたという。
「悪い時期に代替わりしたなあ、と思いました。しんどかったですね。どうにかしないと、と毎晩夫婦で話し合いました」
経理を担当する吉美さんが笑った。
全国的に住まいの洋風化の影響で、和室が減り、全国の畳表の供給量(国内外産)は、2006年までの10年間で約30パーセント減少、その後の10年でさらに半減している。全世帯数の畳替え枚数は、平成の30年間で70パーセント減少している。
夫婦で知恵を絞り、できることからなんでもと始めた。必死だった。
吉美さんは「チラシ」を作って、3人の子育てや家事、畳づくりの補助の仕事の合間に周辺の住宅を回った。理さんは休日返上で経営改善のセミナーなどに参加した。ホームページを開設し、 PRにも力を入れた。
ある日のこと。畳製造に使う機械の刃を研ぐ、研ぎ機業者と話していると、研ぎ機で「包丁研ぎ」サービスを始めた畳店が繁盛している、という話を教えてくれた。これだ! と思った。
「ワンコイン 500円 包丁研ぎます」
ブラックボードに書いて店頭に置いた。畳を納品したお客様には、サービスで包丁を研いだ。好評だった。包丁研ぎの仕事がどんどん増えた。
「切れない包丁で料理をするのがストレスやった。ストレスがなくなった」
とよろこばれ、お客さんを紹介してくれる人もいた。口コミで依頼が増えていった。
平成22年(2010)冬、ある日の夕方のことだった。
夫婦で出入りの大工さんとお茶を飲みながら話していたら、発売されたばかりの「アイパッド」を買ったが、ケースが売ってない。
「アイパッドのケース、畳表で作れへんかな? 作ってよ 」
といわれた。その夜、吉美さんは畳表を切ってミシンで縫った。うまく縫えるか不安だったが、とにかくやってみようとトライしたら、意外にうまく縫えてびっくりした。大工さんのひと言から、畳表を使った小物商品の開発・販売へと新しい道が開けていくことになった。
イタリアからの迷惑メール?からの「グッドデザイン賞」受賞
アイパッドのケースを作れたことで、吉美さんは他にも作れる物があるかも? と、携帯電話のケースを作った。当時、3人の娘は中学生・小学生・幼稚園だった。
工業用ミシンを購入した。朝夕の家事をこなしながら昼間は理さんの畳づくりを手伝い、経理をしながら、夜にミシンを踏んだ。
「あのころが、一番たいへんだったかも」
それでもがんばれたのは、畳の受注激減の中、将来のことを考えていたからだ。「小物づくり」なら女の子もできる。子どもたちに残してやれる仕事という思いがあったからだ。 名刺入れや財布、コースターなど、いろいろ商品を作り、ホームページで通信販売も始めた。吉美さんがデザインした物を作ってもらう業者も、知り合いからの紹介でできた。徐々に量産体制が整った。
2015年のことだった。ホームページの「問い合わせ窓口」に、1通の英文の「迷惑メール」が届いた。何が書いてあるかくわしくはわからなかったが、どうも迷惑メールではないような気もして、ホームページの制作会社(奈良市・ブルーオーキッドコンサルティング)の渡辺淳社長に相談すると、
「迷惑メールではなくて、『イタリアで開催されるコンテストに出品しませんか?』という内容ですね」
しかし、出品料などが高額で無理かな、と思っていたら、
「日本にも商品PR、ブランディングに有効なコンテストはありますよ。“グッドデザイン賞”に応募してみませんか」
テレビCMなどでよく目にする有名な賞だし、イタリアのコンテストより費用もかなり安い。夫婦で、トライすることに決めた。畳表で作った「長財布」を出品。渡辺さんの指導を受けながら商品にこめた思い、商品誕生までの物語などをまとめて応募した。1次・2次・3次と審査を通過して、2016年の「グッドデザイン賞」を受賞したのだった。
その年、織田畳店3代目の父は、73歳で亡くなっていた。亡き父への感謝を胸に、夫婦で「授賞式」に参加した。仕事で東京に来ていた渡辺社長も、時間を割いて駆け付け、よろこびを共にしてくれた。グッドデザイン賞のおかげで、商品を置いてくれる店も徐々に増えていった。
涙のニューヨーク一人旅
吉美さんは、店の向かいにある天理教の教会の現会長と幼馴染で、神殿前の広い広場でよく遊んだという。しかし、理さんと結婚するまで天理教の教えに深く触れたことはなかった。結婚後、理さんの実家の教会の月に一度の月次祭は夫婦で参拝した。
子どもを授かった吉美さんは、子どもが熱を出したりして辛そうな顔を見ていると、母親として、理さんがいっていた「おさづけ」(病気平癒の祈り)をできたらと思うようになった。月次祭で奏でられる「鳴物」もできるようになりたいと思い、自ら別席(「おさづけの理」を戴くために“おぢば”で聴かせていただく親神様のお話)を運んだ。
夫婦そろって神様へ心をつないだ年限が種となって、実ってきたのかもしれない。さまざまな縁の糸がつながって、織田畳店の名前は海を渡っていく。
グッドデザイン賞受賞の翌年、奈良県の担当者から「チャレンジしてみませんか!」と声をかけられ、ニューヨークで開催される「世界中の商品の“見本市”」=ニューヨークNOWに参加した。
海外へ行ったこともなければ英語もまったくわからない理さんの一人旅だった。しかし、大教会青年時代の同僚からの紹介で出会った人が、ニューヨーク在住の人を紹介してくれ、親身に世話どりをしてくれた。また、高校時代の同級生から「参拝」を進められ、迷いに迷いながら地下鉄に乗ってたどり着いた「天理教ニューヨークセンター」では、センターでつとめる女性から、
「理さんのお母様には、大阪女子布教修練所の時、本当にお世話になったんです。お母様からもお手紙をいただいています」
といって、歯ブラシが買えず困っていた彼に付き添って買い物など、お世話どりをしてくれた。
「現地では、ご縁のありがたさと温かい親切、また、両親の信仰のおかげも感じて、泣いてばかりでした」
翌年、2018年はニューヨークNOWの時に繋がった会社(RESOBOX)へ、夫婦で行き単独で展示会をさせてもらえた。
フランス・イギリスへも
2018年10月、日仏友好160年にあわせてフランスで開催された「ジャポニスム2018」(日本文化・芸術の祭典)に、奈良県が仏像展示にあわせて奈良県の商品PRをした。担当者から声をかけられ、夫婦で行った。
フランスへ行く1年ほど前だった。仕事でお世話になった天理教名古屋大教会の詰所で、詰所主任の先生から、「天理日仏文化協会」(パリにある日本語講座、お茶お花やアートなど、日本文化の講座を開催する文化交流拠点)の津留田正昭会長を紹介された。ちょうどフランスからおぢば帰り中だった。
「フランスに来ることがあったら、連絡してください」
といわれていたが、本当にフランスに行くことになった。津留田会長は現地での二人の動き・ニーズを聞いてから、移動経路やさまざまな情報を教えてくださった。おかげで夫婦二人でフランスを楽しむこともできたという。
翌2019年10月、再び奈良県からの声掛けでフランス・イギリスへ行った。この時は、津留田会長から「フランスで何かしたいことはないか?」と聞かれて、「天理日仏文化協会」で「ミニMY畳作り教室」を開催。事前にチラシを作って宣伝してくださったおかげで、午前午後の2回、フランスの人や現地の日本人に「いぐさの効用」の話をし、畳作りを体験してもらえた。海外初の畳作り教室だった。天理教ヨーロッパ出張所の長谷川善久所長のおかげで、出張所の青年・女子青年も参加、パーティーまで開いてもらったという。
そして、イギリス・ロンドン(2店舗で商品展示)でも、高校時代の同級生の教え子が一日中、そばについて通訳や写真撮影などお世話をしてくれたという。
「本当に、不思議にご縁がつながって、みなさんが助けてくださったんです」
笑顔で話す吉美さんの目が、少し潤んだように見えた。
畳への思い
理さんにとって畳とは? 畳への思いなどを尋ねた。
しばらく考えた後、理さんは一言ひと言を噛みしめるように話した。
「生活の一部であってほしいですね。い草は温度・湿度を適度に調整するし、消臭作用もある。空気の浄化作用もあって、安らぐ空間を作ってくれます。でも、選ぶのはお客様ですから、そういった良さを伝えていく工夫、取り組みをこれからもしなければいけないです」
「そして、わたしの人生の中で、妻との縁もそうですし、本当にいろいろな人をつないでくれたのが、畳です」
最後に、天理教を信仰してきて、一番心に置いていることは? と問いかけた。
「よろこび、ということですね。この仕事は、人のよろこびを見て、よろこぶ仕事ですから。『ありがとう』といわれた時、それが一番のよろこびですからね。よろこびという言葉を常に胸に置いています」
理さんの横で、吉美さんが深くうなずいている。
二人三脚で苦しい時を乗り越え、夫婦として、そして仕事のパートナーとして力をあわせてきた二人。その二つの心が織りなす空気に素晴らしい縁が引き寄せられてきたのだと感じた。
これからも、二人が織り出す未来を見たい、と思った。
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