ヒップホップダンスとの出会い
天理総合駅の南、JR線の高架をくぐると、交差点の角に「たばこ」の白字が見える。外から見ると分かりづらいが、そこに「ファットダンススタジオ天理」はある。10月の午後、カメラマンのYさんとお邪魔した。
板敷、壁一面鏡張りの細長いスタジオに、木製のテーブルを置いて対面した。初対面のぎこちなさは、あいさつの後、モッチンさん(教人・47歳・ファットダンススタジオ代表)のはにかむような微笑みで解(ほど)けた。
――ダンスを始めたきっかけは?――
「地元、大阪で、近所に住んでいて小中学校が一緒だったまっちゃんという、彼の存在ですね。中学3年のころ、僕は仲間からいじめられるようになって、リンチも受けた。それをかばってくれたのがまっちゃんでした。うれしかった。それまで親しいわけではなかったのが、これをきっかけに親友になったんです」
天理高校に入学して寮生活が始まってから、月に1度の外泊日に大阪に帰った際に、当時ダンスにハマっていたまっちゃんにダンスを教えてもらうようになった。次に会うまでに練習を重ねた。1番最初に教わったのが、「ランニングマン」というステップ。腕をふり、足を上下させて、その場で走るステップだ。毎月、一つずつステップを教わった。
――ダンスに熱中するまでのプロセスを教えてください――
「ふり返ると、天理高校の林田先生との出会いが、ものすごく大切なきっかけです。先生との出会いから得た力が、僕のダンスの底に流れていると思うんですよね」
天理高校では、3年生の時に友人4人と文化祭で踊った。ダンスを続けながら「求道部」に所属し、幼少年指導(子どもたちをゲームで楽しませたり、天理教の教えを伝えることを学ぶ)に興味をもったモッチンさんは、2年生のとき、天理教の教えにハマった。それは、教理の授業担当だった林田先生のおかげだった。それまで教理の授業では居眠りをしていた彼は、林田先生が説く「いんねん」の教えに目を開かれた。いんねんはすごい教えだ、喜ぶためにある教えだと気づいたからだ。
天理教では、「おさしづ」(ご神言)に、「いんねんというは心の道」という言葉がある。日々の心の使い方が、いんねんというものを形成していく。その心の使い方で、体質まで変わるという。喜びの心になると、体内が弱アルカリ性に変化し、健康になるといった話を聞いてから、日々「喜び」を胸に暮らすことを心がけた。
「たんのう」の教えも胸に刺さった。嫌だな、辛いなという喜べないようなことも、視点を変えて今までより100分の1でも喜べるよう心がけていけば、やがて心から喜べるようになるのではないかと考えるようになり、毎日が新鮮に感じ、毎日発見があった。そして、友だちがあまりいなかった彼に、どんどん友だちが増えていったという。
十二下りのおてふり(教祖が教えられた世界たすけの祈りの踊り)も、林田先生から、〇〇下りの「ココが好き」という部分を作っていけば、十二下りが楽しくなると教えられ、おつとめが好きになった。そうして、どんどん天理教を求める気持ちが高まっていった。
駆け上った階段
天理大学宗教学科に入学したモッチンさんは、ダンスを続けながら、学生が自主的に信仰を深める団体“よふぼく会”に入会した。3回生のときには会長になり、夏休みにマウンテンバイクで北海道までにおいがけ(布教伝道)の旅に出た。そのとき、宿泊のお世話になった教会で聞いた布教道中の話に胸を熱くした。このときの10日間の体験から、教祖をより身近に感じるようになった。
――大学卒業後もダンスをつづけた理由は?――
「大学4回生のころ、ある日、ダンスはにおいがけに活かせるという思いが突き上げてきたんです。自分が天理教を好きになるにつれて周りにも伝えたい気持ちが強くなり、外に向けての布教も必要だが、まずは、天理教の若い子たちにも天理教の教えを好きになってもらいたい。それを伝えるための手段として、これからもっと流行るであろうダンスが活かせるのではないかと考えた。布教活動の一環として鼓笛活動がありますが、鼓笛は1人ではできないし、楽器もたくさん必要ですが、ダンスは1人でも大勢でもできる。これからの時代にマッチしたにおいがけの方法ではないかと思ったんです」
彼の話に、周囲は「?」だったというが、モッチンさんの胸には「天理教とダンス」に、「かしもの・かりもの」と「おてふり」が結びついた。ダンスを通して、神様からお借りしている「かしもの・かりもの」の体を喜んで使わせていただき、周囲の人を喜ばせる道があるのではないか? 天理教を信仰する人が躍る姿は、見る人に何かを感じてもらえる、と思った。何かに突き動かされるように、次から次へとあふれ出てくる思いをノートに綴った。
この想いを実現させるためには、自分自身が有名になる事が必要だと感じた彼は毎日、親神様・教祖に、「僕を有名にしてください!」とお願いした。ダンスで天理教を広め、陽気ぐらしの世界実現のためにがんばりますから、そのために有名にしてください、と。
大学卒業後、友人と大阪・天王寺駅近くのショッピングモールで踊った。その姿を見て「一緒に踊らないか」と声をかけられ、4人組のダンスチーム『DEF』が誕生した。「1年363日・毎日8時間」練習する日々が始まった。
「ダンサーがよく行く“クラブ”にも行かず、お酒も飲まず、遊ばず、あんなに練習していたチームはあまりなかったと思いますね」
そして1年後にはヒップホップダンスのコンテストで「日本一」になり、2年後、24歳のときに「世界一」になった。まったくの素人だった彼が、たった2年で世界一になったことは、モッチンさん自身、「本当に不思議な感じだった」という。
「毎日8時間踊って体はガタガタだったが、それでも頑張れたのは天理教を広めたいという夢があったからでした」
慎重に言葉を選んで話すモッチンさんの言葉が、ジンと胸に響く。“おやさま”がそばにいて、彼を応援しておられたのではないかと感じたからだ。
夏のこどもおぢばがえり「バラエティ」への出演
夏のこどもおぢばがえり、本部第2食堂で行われる「バラエティ」(奈良教区主催)。歌ありダンスありコントありのステージで、高校生や子どもたちが軽快なダンスを披露していたことを記憶している人も多いのではないだろうか。モッチンさんの教え子たちだ。
彼が23歳、平成10年(1998)ごろ、ダンスに興味のある天理高校生5、6人にダンスを教え始めた。踊れる場所を探し、天理市民会館の前、外灯の下で練習をした。その後、彼彼女たちは、バラエティに出演するようになり、その他の天理教内の行事にも積極的に参加。平成16年(2004)には「ダンス部」として承認され、全国大会で見事優勝している。
そのダンス部の生徒達がバラエティに出演することになり、ダンス部の生徒たちにとって、ダンスとにおいがけをつなぐことを体感する場となった。そしてバラエティの出演により、天理教内でも天理高校ダンス部の存在を知ってもらう大きな機会となった。
また2014年からは、ファットダンススタジオの教え子たちもバラエティに参加することになる。バラエティに参加してダンスを踊る教え子たちは、10日間の期間が終了すると、だれもが感激の涙を流した。大勢の観客の前で連日踊り、疲労との戦いの中、経験を積み、日に日にダンスがうまくなる。そして何より、天理教の教えを胸に活動する受け入れスタッフとの触れ合いが、天理教を知らない教え子たちの心を成長させると実感した。天理教を感じてほしい、と願って指導してきたモッチンさんには、忘れられないエピソードがある。教え子の一人が、
「僕、天理高校に行きたかった」
と言った。天理高校生が、おぢばに帰ってきた人たちに元気に挨拶する姿や、積極的にひのきしんに取り組む姿を目にし、彼らの振る舞いを見て、感じるものがあったのだ。この一言が、とても嬉しかった、という。こうして、「教内の若者へのにおいがけ」と「ダンスを通して天理教を知ってもらう」という目標に向けて進んでいく。
ヒップホップのこころと“夢”
2024年のパリオリンピックの追加種目「ブレイキン」(ブレイクダンス)は、ヒップホップのダンスである。「ヒップホップ」とは、単に音楽とDJとダンスの文化ではないようだ。モッチンさんは言う。
「ヒップホップ文化は、ピースエナジー(平和の力)だと思うんです」
1970年代、ニューヨーク・ブロンクス地区発祥のヒップホップは、地区内で起こるグループ同士の抗争を、ブレイクダンスやラップの競い合いに変えることで、流血を防ごうとして始まった。ヒップホップを普及させたDJ、アフリカン・バンバータが大切にした考え方は、
――ピース(平和)/ユニティ(団結)/ラブ(愛)/ハヴィング・ファン(楽しむこと)――
と言われている。
「サイファー(アラビア語で0)と言って、みんなが円(輪)になって踊る。そのとき、お互いのダンスを決して否定しない、認め合うというルールがあるんです」
テレビなどで、輪の中で踊っている映像を見たことがあるが、そういう意味だったと知った。
「お互いに、肌の色も考え方も違う者同士が、お互いを認め合ってまとまっていく。ヒップホップには、そんな意味と力があると思うんです」
物静かに話すモッチンさんの言葉に、熱がこもってくる。
天理教では「一手一つ」という言葉がある。互いに違う者同士が、一つの目標、お互いに相手を立て合って助け合って暮らす「陽気ぐらし」へと向かう原動力になる教えである。モッチンさんは、ヒップホップを通して、お互いを否定しない・助け合う「陽気ぐらし」の文化を広めたい、と熱望している。
2011年から開催されている「Legend Tokyo」は、ストリートダンスの大人数による振付作品のコンテストである。「Legend Tokyo3」に、モッチンさんは招待を受けた。東日本大震災から2年後、震災後何もできなかった葛藤をモッチンさんはこのダンスの構成(ストーリー・振り付け・音楽)にぶつけた。
「作ろうと思って作ったものではないです。考えているうちに、ただただ涙が出てきて、気づいたら完成していました」
「津波」に家族や友達をさらわれ、一人になった少年の心が救われていくというストーリーだ。少年少女を含め、モッチンさんの教え子たちなど総勢30名あまりが、白熱のダンスを展開している。このダンスの作品名は、
「一手一つ ~ONE WORLD,ONE FAMILY~」
これ以上の説明は加えたくない。下の動画を見て感じてほしい。
最後に、モッチンさんの原点である「ランニングマン」が出てくる。
――最後に、モッチンさんの“夢”を聞かせてください――
「おやさまの前で踊りたい。それが僕の今の“夢”ですね。おやさまの誕生祭に、天理教教会本部の教祖殿前で踊れたら、おやさまに少しは認めていただけたことになるのかな、と思って」
彼の歩みをふり返ると、モッチンさんは、自ら思い描く未来像を実現させてきた。真摯に教えを求めダンスを追求する日々。彼の情熱と親神様・教祖の思いが一致したとき、彼の夢は実現すると思えた。
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