わたしの3・11
波に流される家や車、堤防を越える巨大な黒い波……。病院の待合室、テレビに映る映像を見ながら、岩井敏子さん(80歳・大阪市・エクセフティ社長)は、これは現実なの? と、ぼんやりとした頭で考えていた。
2011年3月11日午後2時46分。東日本大震災が発生した。その数十分前に、医師から進行した「乳がん」の宣告を受けた。健康診断にあわせて、何気なく受けた乳がん検診の結果だった。頭に浮かんだのは2人の娘のことだった。
「目の前が真っ暗になりました。私が死んだら2人の娘たちはどうするのかと思ってね」
当時を思い出したのか、目もとが赤らんだ。
「母は、信じられないぐらい弱りきっていました。いつも元気よくて気丈な母が、別人かと思うぐらいでしたね」
隣で長女の由紀子さん(52歳・エクセフティ・エステデヴェリテ店主)が、母親の横顔を見つめながら言う。
敏子さんは「神様、たすけてください!」と心の中で叫びながら、流れる涙を抑えられず家に帰った。そこには、長年の知人・Iさんが来ていた。心配して駆けつけた娘たちを前にして、憔悴しきった彼女に、
「天理の『おやさま』のところに行って、たすけていただこう。絶対に大丈夫!」
と言った。藁にも縋る思いで、Iさんの運転する車で大阪から天理教教会本部へ走った。Iさんは東神田大教会の信者さんだった。本部神殿で手を合わせ、教祖殿で教祖に「なんでもいたします。どうか命をたすけてください」と、必死に祈った。
Iさんから紹介された京都にある病院の名医に執刀してもらえることになった。なかなか手術予約はとれないのに、23日に手術と決まった。由紀子さんが、いたずらっこのような目で、微笑みながら話す。
「その名医の先生を受診する話になって、私、すぐに手紙を書いたんです、先生に。母が逃げ出したらあかんと思ってね。不安と心配で感情も不安定でしたから、母は信頼できる医師でないと手術させないと思って、そう、母の“取り扱い説明書”を書いて送ったんです」
手術の前日入院まで毎日、Iさんの運転でおぢばへ帰った。無我夢中、必死に教えを求めた。教会本部神殿の「おたすけ掛」で本部の先生のお話を聞き、おさづけを取り次いでもらった。漫画本『劇画教祖物語』(道友社刊 原作:服部武四郎、作画:中城健雄)を読んで、教祖のお姿に触れた。慈愛あふれる親心に打たれた。漫画に描かれた「中南の門屋」「つとめ場所」「御休息所」など、教祖が住んでおられた当時の建物が保存してある「記念建物」(教会本部、祖霊殿の北側)へ行き、手を合わせた。そして、心定め(教祖との約束)をして手術を受けたのだった。
一家を救った「おにぎり」
「初めて聞くはずのお道(天理教)の教えの中に、どこかで聞いたことある話やな、と思ったものがあったんですよ」
と、敏子さんは言う。
敏子さんの母・岩井フサノさんは、大分県宇佐市で様々な商売をした後、昭和45年、50歳ころから「生パン粉」製造業を始めて成功を収め、平成10年(1998)、80歳で亡くなっている。葬儀の日、町の花屋の花がなくなった、というぐらい、大勢の人に慕われた人だったという。そのフサノさんの言葉を、敏子さんは13回忌にあわせて本にまとめた。(JDC出版刊・『欲だせば 身がでる 心の冷えを取るんやで―パン粉ばあちゃんの残したものは―』)。乳がん宣告の翌年1月の出版である。
本の中には、―「身体は神様からの借り物やで」と何度も言われた。―という話や、―自分さえ良ければ 良いという考えは 欲のかたまり 必ず 自分の一番大切なものがなくなるんだよ…―、―感謝出来ない事にも 感謝出来る心になれば 心が温かくなるよ 心を冷やさないでよ 人のふりみて我がふりなおせ―など、お道の教えに通ずるものがいくつもある。
フサノさんの葬儀が終わってしばらく経ったころ、年配のご夫婦が家に来られた。面識のないご夫婦が仏前に線香を上げてくれる。聞けば、何十年も前のこと、ご夫婦は幼い子を連れて、フサノさんの家の前の駅、待合室で終電を待っていた。フサノさんは知り合いのその親子を見て、夜行列車でお腹が空くだろうと思ったのか、おにぎりを握って重箱に入れ、唐草模様の風呂敷に包んで渡したという話だった。
「親子心中に行くところだった」というご夫婦は、子どもがおにぎりを「おいしい、おいしい」と言って食べる姿を見て思いとどまり、大阪で列車を降りて、住み込みで働けるところを探して食いつないだ。新聞でフサノさんが亡くなったことを知り、居ても立ってもいられず、訪ねてこられた、という話が載っている。
「母は熱心な浄土宗の信者でした。天理教は信仰していませんでしたけど、見聞きするお道の教えを自分なりに身につけていたんやないかと思うんですよ。母の心にも、教祖の教えが流れていたように思えてね」
遠くを見るように話す敏子さんの目が、少し潤んで見えた。
愛しく懐かしい“お母さま”にすがった日々
乳がんを手術して退院した敏子さんは、教祖と約束した「別席」(教祖のご道中や天理教の教えのお話を聞く)を運んだ。
「教祖のお話は、愛しく懐かしく思う、“お母さま”のお話でした。私たち子どもをたすけたいために長い年限、ご苦労くだされた教祖……涙が止まりませんでした」
そして毎月、放射線治療の前後3日間、毎日おぢばへ帰った。
教祖130年祭(2016年1月)への三年千日(2013年~15年)の通り方を示された『諭達第三号』を読んだ敏子さんは、何度となく出てくる「おたすけ」の言葉に、「人をたすけてわが身たすかる」の教えを実践する。そのころおぢばで買った「日めくり」の言葉に、「一代より二代、二代より三代が大事」と知り、三年千日の1年目は、二代目の子どもたちに別席を運ばせるよう努力した。
「母が導いたようぼく第1号は、私です」
由紀子さんが愛嬌のある丸い目でニコッと笑った。
「親孝行になれば、母が喜ぶのなら、という思いやったんです。おぢばでは、毎月、母と一緒におぢばへ帰ってこられてよかったぁ、と思ってね」
2年目は、仕事関係の知人や友人が別席を運んでくださった。
3年目は、三代目、孫たちや、知人友人が運んでくださった。
「おばあちゃんは、お母さんに“おさづけ”取り次いでもらえるやろ。あんたらは、お母さんに取り次げるよう、“おさづけ(の理)”もろてほしいねん、と孫たちに言ってね」
孫たちも素直に別席を運んで、おさづけの理を拝戴して「ようぼく」になった。「孫たちも教祖大好きでね」と話す敏子さん、とても嬉しそうな笑顔だ。
2年目の10月、別席の中席で止まっていた45歳の次女が、「末期の大腸がん」と宣告された。自分の時より辛かった。敏子さんは修養科を心定めし、手術の前日まで20日間、連日おぢば帰りした。おぢば到着が夜になり、教祖のお休みになる時間(教祖殿前の戸が閉まる)前にと、本部中庭を息切らして駆けぬけ、階段を駆け上がったことも幾度もある。
そんな彼女の姿を見ていた教会本部の本部員先生と、「おたすけ掛」でご縁をいただいた。その本部員先生は、次女のおたすけに大阪まで足を運んでくださった、という。
次女の手術後、医師の話では、驚くほど大きながんが3つも並んでいたが、不思議にきれいにとれた。転移していたがんも消えていた。
(次号へつづく)
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